Red Book – Chapter 11

第11課 条件を示す 「税金に関心がありますか」

■ 本文を読む前に

・税金にはどんな種類がありますか。(→関連語)

・直接税と間接税の違いは何ですか。(→関連語)

・税金の「確定申告」 とは何ですか。あなたの国ではサラ リーマンは確定申告をしますか。

■ 本文

普段の生活で税金を意識するのはどんな時だろうか。人によって色々だろうが、給料をもらった時と買い物の時だと答える人も多いのではかろうか。サラリーマンであれば、給与明細には源泉徴収された所得税、住民税の額が書かれている。また、買い物でもらったレシートを見れば商品の価格に消費税がプラスされていることがわかる。

それでは、課税制度そのものが不公平だと考えることはあるだろうか。私が見たところでは、そこまで税金について関心を持っ人は少数派のようである。私は常々税金への無関心が政治への無関心に結びついているのではないか と考えている。税金は納めるもの、つまりお上の取り立てに従って支払うべきものだという発想が根強い。確かに納税は国民の義務であるが、納税者であればこそ、もっと税金について知るべきだと思う。その知ろうという姿勢が政治を良い方向へ導くことになるのではなかろうか。「どうせだれが政治をしたってそんに変わらないんだから」という声を耳にすると、よけいにそう思う。課税が国民に公平なものかどうか判断する上で参考になる指標としてニつ挙げておきたい。一つは所得税などの「累進課税」で、 もう一つは「直間比率」である。

日本では所得税と住民税は累進課税の方式をとっている。高所得になればなるほど税金として取られる割合が増える仕組みである。これが行き過ぎると、勤労意欲を失うおそれがあるが、高所得者も低所得者も全く同じでは、やはリ不公平に感じる。日本では戦後、段階的に税率が引き下げられ、現在の最高の税率は37%となけ、図1に示すように主要先進国並みとなった。また、中・低所得者層の税負担が比較的低くなっていることもわかる。

直間比率とは直接税と間接税の比率を示したものだ。前者の代表例として所得税、法人税、住民税がある。後者の代表例としては酒税やたばこ税のように個々の商品にかかるもの、そして商品・サービス全体にかかる消費税がある。徴税の仕組みを考えると、直接税が所得に応じてその税率が異なるのに対して、間接税は所得の高い低いにかかわらず、平等に課せられるものだと言える。

図2を見てわかるように、欧米の主要因と比較すると、日本は直接税の比率が高いほうだと言える。直間比率のバランスがどの程度ならいいのかというのは簡単には決められないが、各国ども時代の変化に合わせて、公平な課税制度になるように努めている。特に日本の場合は今後急速に高齢化社会を迎えることになるため、もう少し間接税の方へ事シフトさせたほうがいいのではないかという指摘がある。すなわち、相対的に労働年代の人口が減少していくことを考えると、所得税よりも、間接税により高い比重を置き、課税の時期を労働年代中心から生涯にわたるものに広げていくほうが、税の公平という点で望ましいと考えるわけである。

国の側にしてみれば、財源を確保できないことには予算を組むことができない。かといって、簡単にたくさん取れるところから取ろうとすれば国民は納得しまい。どのような税制度が公平なのかは、国民の合意のもとに決めていく必要があろう。できるものなら高い消費税は払いたくないとは、だれもが思うことだが、だからといって、引き上げには何でも反対というわけにもいくまい。本当に引き上げが必要なのかと考えることが、政治へと目を向けるきっかけになるはずだ。

税金に関して真に国民の意識が高まらない限り、天気予報ではないが、「怒りのち慣れるでしょう」で役人の言いなりで終わってしまう。関心が持てないのなら、なぜそうなのか。その辺から考えてみる必要がありそうだ。仮にサラリーマンが源泉徴収ではなく、めいめいが確定申告をしなければならないとしたらどうだろうか。面倒なことはすべて人任せというのではいけないような気がする。

 

Red Book – CH 10

第10課 逆接のつながりを示す(1) マニュアルとユーモアセンス

■ 本文を読む前に

・お店の人がお客に対して使う日本語で、何か変だと思うものがありますか。(学校で学んだ表現や文法と違うものや自国ではそういう言い方をしないものなど)

■ 本文

左の4コマ漫画を見て、 皆さんはどんなことを考えるだろうか。2コマ目を読んで、「そういえば’、 この日本語はよく聞くけど、考えてみれば変だ」 と思った人もいるだろう。店員にしてみたら、特に意識もせず、料理を提供する時の慣用表現のつもりなのだろう。しかし、「なる」 を使うのは理屈に合わないことは確かだ。客の中には、わざと揚げ足を取る人もいるだろう。店員も理屈に合わないことは承知しているので、反論もできず、ただ黙って引き下がるしかない。

客の言い分はもっともだとはいうものの、言葉がすべて理屈どおりに使われているわけでもない。指摘されれば変だと気がついても、なぜかそれを使うことがーつの「決まり」のようになってしまうことも少なくない。4コマ目を読んで、決まり文句をえいちいち指摘する客も客なら、それをまじめに受け取る店長も店長だ、と思う人もいるだろう。「何でもマニュアルに頼るのではなく、臨機応変に対応することこそ学ば んっければならない」と。このような意見が出てくる背景には、マニュアルという言葉がどちらかと言いと否定的に見られることが多いという事情がある。「マニュアル的な対応」と言えば、マニュアルに従って、 てきぱと対応することよりも、機械的な対応しかできない、融通が利かない、 という文脈で使われることが多い。

マニュアルは元々一定期間に、必要最低限の作業を、だれもが効率よく学習し、身につけるためのものだ。だから、お店の人の肩を持つなら、どんな問題が起こっても、だれもが素早く適切に処置できるようにマニュアルを作っておくというのは、店長としては当然の判断だと言える。それにしても、この漫画の場面で「マニュアルを作らなくては」につながるのは、まじめすぎてかえってこっけいに映る。頭をひねってみたところで、いい案が思い浮かぶとは思えない。せいぜい「失礼しましたと言って、正しい言い方に直す。決して反論はしない」といったくらいだろう。

それでは、マニュアルに頼らない臨機応変な対応とはどんなものだろう。実はこんな小話がある。レストランで食事をしていた客が料理の中に虫が入っているのに気がつき、店員を呼びつけて文句を言った。「おたくは三つ星レストランのくせに、客にこんなものを食わせるのか!」と、かんかんになって怒った。店員はさほど慌てる様子もなく、客の横に立ち、料理を隠したかと思ったら、素早く客の耳元に顔を近づけて「お客様、声が大きいです。ほかのお客に聞こえます。これはお客様だけの特別サーピスなんです」とささやいた。

実際にこんなことを言われたら、よほどジョークが分かる人でなければ、 笑って済ますことはできないし、店員もなぐられかねない。ジョークとしては笑えるが、ユーモアとは言い難い。笑いを誘うという点ではジョークもューモアも同じだが、ジョークはあくまでも言葉遣いのテクニックの一つで、その使い方によっては相手を楽しませる笑いにも、傷つける笑いにもなる。ユーモアはジョークの要素もあるのだが、もっと大切な社会的な役割を担っていると考えたい。失敗のない人はいない。どんなに用心していても問題は起こる。泣きたいほどつらい時もあるだろう。そんな時こそ笑いが救いになる。無責任な笑いではなく、どうしようもないせつなさや緊張感から解き放すための笑いである。そういう笑いを誘うものとしてユ ーモアがあるのだと思う。気まずい雰囲気を機転の利いた対応で切り抜けるユーモアセンスこそ、マニュアルどおりの対応しかできない頭に足りないものではないか。

あなたならどんなユーモアであのお客の揚げ足取りに対応するだろうか。その出来次第では、「なかなか面白いことを言うね。また食べに来るよ」と気に入られるかもしれない。

Red Book – Chapter 12 – Romanji Furigana

第12課 逆接のつながりを示す( 2) 「 系統樹とその先」

■ 本文を読む前に

  • 人とチンパンジーは遺伝子レベルでは、わずか1.4%程度しか違いがないそうです。それでは、 チンパンジーと人の違いはどんな点でしょうか。
  • 人の祖先はいつごろ、どのように誕生したのでしょうか。人の祖先の 化石はどこで、 どんなものが見つかっていますか。知っている ことを話してください。

■ 本文

人類の進化を説明する時、「人は猿から進化した」という表現が使われることがある。  その進化の過程は通常大きく四つに分類される。

まずは、猿から猿に近いヒト、「猿人」になった段階。人類の一番遠い祖先である。猿人は猿と違って、直立してニ本足で歩くようになり、森林から草原へと生活の場所を変えた。このニ足歩行はヒトへの進化を決定づけた重要なことだった。次に、自由に使えるようになった手で火や単純な石器を使用し、狩猟生活を送っていた「原人」の段階。猿人と比べれば、見かけはずいぶんヒトらしくなったが、言語は未発達で、まだ身振りによる伝達が主であった。しかし、食べ物が木の実などから肉食へ変わることで、脳に栄養が供給され、脳の発達につながった。そして、脳の発達はより高度な技術の智得へとつながった。その後、我々と同じホモ・サピエンスの仲間である「 旧人」   が出現した。  言語能カも発達し、埋葬の習慣もあったと考えられている。そして、現代人に 直接つながるホモ・サピエンスである「新人」 が約20万年前~10万年前に登場した。

このように猿がニ本足で立つようになり、脳が発達し、それにともなって言語を獲得し    技術や知識を身につけ、高度な思考能力を持つヒトになったと考えるわけである。ヒトに近い猿はチンパンジーやゴリラ、オランウータンなどの「類人猿」だから、進化の過程というと、図1のように、それぞれの名前を並べたものを考える人も多いのではないだろうか

最近のCG(コンピュータグラフィックス)技術を駆使すれば、前足を使いながら地上を歩き回るチンパンジーの姿勢が徐々に直立歩行に向かい、顔の形が次第に平面にな り、身長も伸びていき、全身を覆っていた毛がきれいな洋服に変わり、手にしていた石はやりへ、そして最後には銃へと変わっていく様を流れるように示すこともできる。おりに閉込められた猿が自分で鍵を開けて外に出たり、チンパンジーが、限られた数であれ、言葉を理解したり道具を器用に使ったりするのを見れば、「なんて賢いのだろう。もっと学習したら、いずれ進化して人間になりはしないか」と思えてくる。

しかし、図1のような直線的な流れは、進化の一側面をとらえていることは認めながらも、現実に起こった進化の過程とはかけ離れていると言わざるを得ない。生物の進化の過程は、図2のような系統樹とい う、巨大な樹に見立てたものによって示される。これを見ると、ヒトははるか昔にチンパンジーと共通あ祖先と別れて進化の道を歩んだことが分かる。図中の星印(☆)がその分岐点である。したがって、サルにしろ、チンパンジーにしろ、親がどんなに賢くても、その子孫がやがて人類になるということはあり得な い。人間が彼らに学習させようとさせまいと、結果は同じである。今よりも賢くなることはあっても、それはチンパンジーが「賢いチンパンジー」になるだけのことだ。ちなみに、人類の祖先が類人猿と決別したのは、両者の遺伝子の違いの分析からおよそ500万年前ころだと推定されている。

これまで過去を振り返ってみたわけだが、この先の系統樹を想像してみることも可能だ。現代人の先にもうーつの分岐点ができないとは言い切れない。しかし、分岐点が出来たとしても、図2が示しているように、幹から分かれた枝はその子孫を残すことなく絶滅する場合もある。現にそうやって多くの動物の「種」はこの世から姿を消し、今では化石でしかその存在を知ることができない。人類の進化の過程においても、現代人と共通の祖先から分かれた猿人、原人、旧人たちの枝は途中で切れている。地球上に60億もの人が住んでいるとはいえ、人類にはホモ・サピエンスという、たったーつの「種」しか存在しないのである。

我々人類はその学名が示すとおり、「知恵を持つヒト」 として地球上で繁栄し続けることができるのだろうか。どんな悲惨な結果を生むのか知っているにもかかわらず、核兵器は一向になくならない。また、かつて繁栄を極めた恐竜を絶滅させたとされる地球規模の異変が再び起こることもあり得る。それに医療技術の進歩により、いよいよ人間が遺伝子橾作によって、「神の領域」 にまで踏み込むことができる時代がやって来た。

さて、どれくらい先かは分からないが、「5 番目の人類」が将来誕生しているとしたら、彼らはどんな系統樹を描くのだろうか。いや、もしかしたら「賢いチンパンジー」が彼らに代わって系統樹を描いているかもしれない。

Red Book – CH10

第10課 逆接のつながりを示す(1) マニュアルとユーモアセンス

■ 本文を読む前に

・お店の人がお客に対して使う日本語で、何か変だと思うものがありますか。(学校で学んだ表現や文法と違うものや自国ではそういう言い方をしないものなど)左の4コマ漫画を見て、 皆さんはどんなことを考えるだろうか。

2コマ目を読んで、「そういえば’、 この日本語はよく聞くけど、考えてみれば変だ」 と思った人もいるだろう。店員にしてみたら、特に意識もせず、料理を提供する時の慣用表現のつもりなのだろう。しかし、「なる」 を使うのは理屈に合わないことは確かだ。客の中には、わざと揚げ足を取る人もいるだろう。店員も理屈に合わないことは承知しているので、反論もできず、ただ黙って引き下がるしかない。

客の言い分はもっともだとはいうものの、言葉がすべて理屈どおりに使われているわけでもない。指摘されれば変だと気がついても、なぜかそれを使うことがーつの「決まり」のようになってしまうことも少なくない。4コマ目を読んで、決まり文句をえいちいち指摘する客も客なら、それをまじめに受け取る店長も店長だ、と思う人もいるだろう。「何でもマニュアルに頼るのではなく、臨機応変に対応することこそ学ば んっければならない」と。このような意見が出てくる背景には、マニュアルという言葉がどちらかと言いと否定的に見られることが多いという事情がある。「マニュアル的な対応」と言えば、マニュアルに従って、 てきぱと対応することよりも、機械的な対応しかできない、融通が利かない、 という文脈で使われることが多い。

マニュアルは元々一定期間に、必要最低限の作業を、だれもが効率よく学習し、身につけるためのものだ。だから、お店の人の肩を持つなら、どんな問題が起こっても、だれもが素早く適切に処置できるようにマニュアルを作っておくというのは、店長としては当然の判断だと言える。それにしても、この漫画の場面で「マニュアルを作らなくては」につながるのは、まじめすぎてかえってこっけいに映る。頭をひねってみたところで、いい案が思い浮かぶとは思えない。せいぜい「失礼しましたと言って、正しい言い方に直す。決して反論はしない」といったくらいだろう。

それでは、マニュアルに頼らない臨機応変な対応とはどんなものだろう。実はこんな小話がある。レストランで食事をしていた客が料理の中に虫が入っているのに気がつき、店員を呼びつけて文句を言った。「おたくは三つ星レストランのくせに、客にこんなものを食わせるのか!」と、かんかんになって怒った。店員はさほど慌てる様子もなく、客の横に立ち、料理を隠したかと思ったら、素早く客の耳元に顔を近づけて「お客様、声が大きいです。ほかのお客に聞こえます。これはお客様だけの特別サーピスなんです」とささやいた。

実際にこんなことを言われたら、よほどジョークが分かる人でなければ、 笑って済ますことはできないし、店員もなぐられかねない。ジョークとしては笑えるが、ユーモアとは言い難い。笑いを誘うという点ではジョークもューモアも同じだが、ジョークはあくまでも言葉遣いのテクニックの一つで、その使い方によっては相手を楽しませる笑いにも、傷つける笑いにもなる。ユーモアはジョークの要素もあるのだが、もっと大切な社会的な役割を担っていると考えたい。失敗のない人はいない。どんなに用心していても問題は起こる。泣きたいほどつらい時もあるだろう。そんな時こそ笑いが救いになる。無責任な笑いではなく、どうしようもないせつなさや緊張感から解き放すための笑いである。そういう笑いを誘うものとしてユ ーモアがあるのだと思う。気まずい雰囲気を機転の利いた対応で切り抜けるユーモアセンスこそ、マニュアルどおりの対応しかできない頭に足りないものではないか。

あなたならどんなユーモアであのお客の揚げ足取りに対応するだろうか。その出来次第では、「なかなか面白いことを言うね。また食べに来るよ」と気に入られるかもしれない。

Red Book – CH 9 – Romanji Furigana

第9課 因果関係を示す あいまいな境界線

■ 本文を読む前に
. スポーツ選手の科学的なトレーニングというと、どんなことがありますか。
. オリンピックの時に、「ドーピング検査」 によって、一度メダルを取った選手が失格になることがあります。ドーピングはなぜしてはいけないことなのですか。道徳や倫理の問題でし’うか。それとも、ほかに理由があるのでしょうか。

■ 本文

オリンピ,クの競技を観戦していると、さすが一流の選手だけのことはあると感心むするばかりだ。彼らがあれほどの能カを発揮できるのは素質だけでなく、日々のトレーニングの積み重ねがあるからだ。そして能カを最大限に引き出すためには科学的なトレーニングも不可欠である。だが、もしそれ以上のものを望むならどうするだろうか。ここにドーピングというわなが待ち構えている。
スポーツ選手が主に薬物使用などの不正な手段により、競技成績を上げようとする行為をドーピングという。IOC(国際オリンピック委員会)はそのような行為を一切禁止している。 スポーツである以上、フェァプレ一に反する不正な行為を許すわけにはいかない。また、薬物の使用は選手
自身の体に深刻な害をもたらすおそれもあるだけに、 医者の立場からしても、それは認められない。ドーピングは薬物だけとは限らない。近年関心なを集めている問題として「血液ドーピング」がある。血液中にある赤血球は酸素を運ぶ役割をしている。この赤血球が増えれば、それだけ酸素をより多く摂取、運搬することが可能になり、持久カがアップする。そこで、事前に一定の血液を液き取り、赤血球が不足した状態をつくり、体をそれに適応させる。そして、競技直前にその血液を自分の体に輸血して、赤血球を増やす方法が考えられた。 しかし、トレーニングによって身体能カを高めるのは良いが、元々自分の体にない物 質を取り入れることはもちろん、たとえ自分の体にあるものでも、人間の営みとして不自然な行為で安易に成果を得ることは不正な行為だと、IOCは考えた。したがって、これもドーピングであると判断された。
ところで、血液中の赤血球を増やす効果がある練習方法として「高地トレーニング」と呼ばれるものがある。レース前に数週間にわたって高地で生活しながら練習するもので、マラソン選手を中心に、世界レベルの選手の間では一般的に行われるようになった。平地で暮らす人間が酸素濃度が低い高地に行けば、体はそれに適応しようとして、赤血球を多く作る。その生理的な仕組みを利用するのである。
体のメカニズムが解明されることによって、科学的なトレーニングも進歩した。高地トレーニングはその一つである。しかし、科学的なトレーニングは、選手たちに不自然な状態を強いるという一面を持つ。わざわざ酸素が少ない環境に身を置いて赤血球を増やすことが自然な行為だとは思えない。だから、この高地トレーニングも血液ドーピングと同じだと指摘する人もいる。これがドーピングとされないのは、たとえ人間の営みとして不自然な行為であっても、少なくとも血液を出し入れするような安易な手段によるのではなく、厳しいトレーニングによるものだと判断されるからである。現に高地では酸素濃度だけでなく、気圧も低くなるため人体にかかる負担は相当なものらしい。
それでは、もしこの高地トレーニングが平地でできるとしたらどうだろう。しかも気圧は平地と同じにでき、そこで生活しながら練習できる設備があるとしたら。実はもう既にそのような設備は実現している。これを利用すればわざわざ高地に足を運ばずに、手軽に練習ができるわけだ。
この平地の「高地トレーニング」は依然としてトレーニングではあるが、不自然なことが手軽にできるとなると、血液ドーピングとどこで線を引けばいいのかという問題が出てくる。「不自然」はどこから「不正」と判断されるのか。 科学や医学が進歩した結果、トレーニングとドーピングの境界線があいまいになってきていると言えよう。


 

dai9ka 因果inga関係kankei示すshimesu あいまいな境界kyoukaisen

本文honbun読むyomumae
. スポーツ選手senshu科学kagakutekiなトレーニングというと、どんなことがありますか。
. オリンピックのtokiに、「ドーピング検査kensa」 によって、ichidoメダルを取っto選手senshu失格shikkakuになることがあります。ドーピングはなぜしてはいけないことなのですか。道徳doutoku倫理rinri問題mondaiでし’うか。それとも、ほかに理由riyuuがあるのでしょうか。

本文honbun

オリンピ,クの競技kyougi観戦kansenしていると、さすが一流ichiryuu選手senshuだけのことはあると感心kanshinむするばかりだ。kareらがあれほどのnouカを発揮hakkiできるのは素質soshitsuだけでなく、日々hibiのトレーニングの積み重ねtsumikasaneがあるからだ。そしてnouカを最大saidaigen引き出すhikidasuためには科学kagakutekiなトレーニングも不可欠fukaketsuである。だが、もしそれ以上ijouのものを望むnozomuならどうするだろうか。ここにドーピングというわなが待ち構えmachikamaeている。
スポーツ選手senshu主にomoni薬物yakubutsu使用shiyouなどの不正fusei手段shudanにより、競技kyougi成績seiseki上げようageyouとする行為kouiをドーピングという。IOC(国際kokusaiオリンピック委員iinkai)はそのような行為koui一切issai禁止kinshiしている。     スポーツである以上ijou、フェァプレichi反するhansuru不正fusei行為koui許すyurusuわけにはいかない。また、薬物yakubutsu使用shiyou選手senshu
自身jishinkarada深刻shinkokugaiをもたらすおそれもあるだけに、 医者isha立場tachibaからしても、それは認めmitomeられない。ドーピングは薬物yakubutsuだけとは限らkagiraない。近年kin’nen関心kanshinなを集めatsumeている問題mondaiとして「血液ketsuekiドーピング」がある。血液ketsuekichuuにあるaka血球kekkyuu酸素sanso運ぶhakobu役割yakuwariをしている。このaka血球kekkyuu増えれfuereば、それだけ酸素sansoをより多くooku摂取sesshu運搬unpanすることが可能kanouになり、持久jikyuuカがアップする。そこで、事前jizen一定ittei血液ketsuekieki取りtoriaka血球kekkyuu不足fusokuした状態joutaiをつくり、karadaをそれに適応tekiouさせる。そして、競技kyougi直前chokuzenにその血液ketsueki自分jibunkarada輸血yuketsuして、aka血球kekkyuu増やすfuyasu方法houhou考えkangaeられた。 しかし、トレーニングによって身体shintainouカを高めるtakameruのは良いyoiが、元々motomoto自分jibunkaradaにないmono shitsu取り入れるtoriireruことはもちろん、たとえ自分jibunkaradaにあるものでも、人間ningen営みitonamiとしてfu自然shizen行為koui安易an’i成果seika得るeruことは不正fusei行為kouiだと、IOCは考えkangaeた。したがって、これもドーピングであると判断handanされた。
ところで、血液ketsuekichuuaka血球kekkyuu増やすfuyasu効果koukaがある練習renshuu方法houhouとして「高地kouchiトレーニング」と呼ばyobaれるものがある。レースmaesuu週間shuukanにわたって高地kouchi生活seikatsuしながら練習renshuuするもので、マラソン選手senshu中心chuushinに、世界sekaiレベルの選手senshuaidaでは一般ippanteki行わokonawaれるようになった。平地heichi暮らすkurasu人間ningen酸素sanso濃度noudo低いhikui高地kouchi行けikeば、karadaはそれに適応tekiouしようとして、aka血球kekkyuu多くooku作るtsukuru。その生理seiriteki仕組みshikumi利用riyouするのである。
karadaのメカニズムが解明kaimeiされることによって、科学kagakutekiなトレーニングも進歩shinpoした。高地kouchiトレーニングはそのhitoつである。しかし、科学kagakutekiなトレーニングは、選手senshuたちにfu自然shizen状態joutai強いるshiiruという一面ichimen持つmotsu。わざわざ酸素sanso少ないsukunai環境kankyoumi置いoiseki血球kekkyuu増やすfuyasuことが自然shizen行為kouiだとは思えomoeない。だから、この高地kouchiトレーニングも血液ketsuekiドーピングと同じonajiだと指摘shitekiするhitoもいる。これがドーピングとされないのは、たとえ人間ningen営みitonamiとしてfu自然shizen行為kouiであっても、少なくsukunakuとも血液ketsueki出し入れdashiireするような安易an’i手段shudanによるのではなく、厳しいkibishiiトレーニングによるものだと判断handanされるからである。現にgen’ni高地kouchiでは酸素sanso濃度noudoだけでなく、気圧kiatsu低くhikukuなるため人体jintaiにかかる負担futan相当soutouなものらしい。
それでは、もしこの高地kouchiトレーニングが平地heichiでできるとしたらどうだろう。しかも気圧kiatsu平地heichi同じonajiにでき、そこで生活seikatsuしながら練習renshuuできる設備setsubiがあるとしたら。jitsuはもう既にsudeniそのような設備setsubi実現jitsugenしている。これを利用riyouすればわざわざ高地kouchiashi運ばhakobaずに、手軽tegaru練習renshuuができるわけだ。
この平地heichiの「高地kouchiトレーニング」は依然izenとしてトレーニングではあるが、fu自然shizenなことが手軽tegaruにできるとなると、血液ketsuekiドーピングとどこでsen引けhikeばいいのかという問題mondaideてくる。「fu自然shizen」はどこから「不正fusei」と判断handanされるのか。  科学kagaku医学igaku進歩shinpoした結果kekka、トレーニングとドーピングの境界kyoukaisenがあいまいになってきていると言えようieyou

 

Red Book – Chapter 8 – Romanji Furigana

dai8ka ji場面bamen示すshimesu2) 「言葉kotoba世界sekai楽しむtanoshimu

 本文honbun読むyomumae

・あなたは自国jikokugo辞書jisho国語kokugo辞典jiten)をよく利用riyouしますか。それはなぜですか 

・「辞書jisho引くhiku」のではなく、「辞書jisho読むyomu」ことがありますか。読み物yomimonoとして面白いomoshiroi思いomoiますか。

 

本文honbun

中学chuugaku高校koukou6年間nenkanにわたって、英語eigo辞書jishoには随分zuibunお世話osewaになったが、国語kokugo辞典jiten引いhii記憶kiokuはあまりない。国語kokugo先生senseiが「せめて英語eigo辞書jisho半分hanbunくらい国語kokugo辞典jiten引いhiiてくれたらな。どうせ本棚hondana入れireっぱなしで、誇りhokoriをかぶっているんだろうな」とよく嘆いnageiていた。結局kekkyokuwatashi国語kokugo辞典jiten引くhikuようになったのは、社会shakaijinになってからのことだ。おそらく自国jikoku言葉kotoba意味imiをわざわざ辞書jisho引いhii調べるshiraberuことは、そんなに多くookuはあるまい。

 

考えkangaeてみれば、国語kokugo辞典jitenというのはきちょうめんである。 まさか辞書jisho引くhikutoshi鹸になって「migi」の意味imiがわからないhitoはいな いだろう。しかし、辞書jishomina知っshi~tsuているからといって省略shouryakuできるわけではない。だから仕方shikataなく書いkaiているというわけでもないだろうが、 基本kihongo定義teigiは、「migi」を調べshirabeたら「hidari反対hantai」とあり、「hidarimiたら 「migi反対hantai」というふうに、結局kekkyokunani説明setsumeiしたことになっていないことが多いooi。ところが、いくつか辞書jisho読んyonでいると、時にはtokiniha面白いomoshiroi発見hakkenもある。

ある辞書jishoの「migi」 の定義teigiには「アナログ時計tokei文字mojiban向かっmuka~tsutokiに、

jiから5jiまでの表示hyouji有るarugawa」 「chuu1」とあり、betsu辞書jishoには「正面shoumenminami向けmukeたときの西nishiにあたるgawa人体jintai通常tsuujou心臓shinzouのあるhou反対hantaigawa」「chuu] とある。基本kihongo定義teigiにこんな苦心kushinato見えるmieruと、辞書jisho執筆shippitsu大変taihenなのだと思うomou一方ippouで、定義teigi説明setsumei仕方shikataを通してwotooshiteその辞書jisho個性koseiがうかがえて、親しみshitashimiさえ覚えるoboeru

 

辞書jisho読むyomuもうーつの楽しみtanoshimi辞書jishoにはない説明setsumei考えkangaeて、atama体操taisouをやってみることだ。言葉kotoba意味imiというものは、辞書jisho定義teigiのほかに、 実にjitsuni様々samazama物事monogoto結びついmusubitsuiて、watashiたちのatamanaka収納shuunouされている。だから、その取り出しtoridashikata次第shidaiでは、betsu説明setsumei可能kanouになる。

例えばtatoeba、「学校gakkou」という言葉kotoba。たいていの辞書jishoには、「教師kyoushi学生gakusei教育kyouikuするどころ」とあったが、いろいろな辞書jishoにあたったところ、「学生gakusei教育kyouiku受けるukeru施設shisetsu書かkakaれたものをーつだけ発見hakkenした「chuu3」。このことから大人otona作るtsukuruとどうしても大人otona視点shiten説明setsumeiしてしまうことがわかる。

 

刑務所keimusho」はどうだろうか。案の定an’nojou受刑jukeisha収容shuuyouしておくところ」と書かkakaれている。これではあまりに一方ippouteki味気ajikeない。反対hantai立場tachibaになって作文sakubunしてみたらどうだろう。刑務所keimushoは「反省hanseiしたsueに、ニdotsumi犯さokasaないと誓いchikai立てるtateruところ」だろうか。それとも、「ニdo捕まらtsukamaraないように反省hanseiするところ」だろうか。視点shiten変えkaeたとたんに、色々iroiro世界sekai見えmiekiた。反省hanseiするどころか、「仲間nakamatsugi仕事shigoto相談soudanをするところ」だと言えieないこともない。いろいろと言葉kotoba世界sekai楽しめtanoshimeそうだ。

 

chuu1 :『shin明解meikai国語kokugo辞典jitendai5ban三省堂sanseidou

dou辞典jitendai3banには「多くookuhitohashi金づちkanadzuchiやペンなどを 

持つmotsuほう(のte)」と書かkakaれている。

chuu2 :『現代gendai国語kokugoreikai辞典jitendai3ban小学館shougakukan

chuu3 :『新潮shinchou国語kokugo辞典jitendai2ban新潮社shinchousha

koku本文honbun設問setsumon

(1)「国語kokugo辞典jitenというものはきちょうめんだ」というのはどういう意味imiですか。 

(2) 基本kihongo定義teigiはどんなものが多いooiですか。なぜですか。

(3)筆者hisshaはなぜ「migi」の定義teigi読んyonで「苦心kushinato見えるmieru」 と思っomo~tsuたのでしょうか  

(4)筆者hissha考えるkangaeruatama体操taisou」とは、どんなことですか。

(5)筆者hisshaはなぜ刑務所keimusho定義teigiで「案の定an’nojou」 と思っomo~tsuたのですか。 

(6)筆者hissha考えるkangaeru言葉kotoba世界sekai楽しむtanoshimu」 とは、どういう意味imiですか。 

 
[Quoted text hidden]

 

Redbook – Chapter 7 -Romanji Furigana

dai7ka 事柄kotogara加えるkuwaeru(2) 「原因gen’inはどこに?」

本文honbun読むyomumae

友人yuujin一緒isshoにドライブをしているtoki想像souzouしてください。友人yuujin運転untenしていますが、初めてhajimetetokoroなので、あなたが地図chizumiながらmichi教えoshieてあげます。ところが、michi迷っmayo~tsuてしまいました。 すると、友人yuujinはあなたに「ちゃんと地図chizumiてたの?」と言いiiました。そのtokiあなたは友人yuujinnankotaheてそう答えkotaeますか。どうしてそう答えkotaeますか。

本文honbun
会社kaisha経理keiri仕事shigotoをしている女性joseiが、伝票denpyou処理shoriでミスをして上司joushi怒らokoraれたとしよう。そのとく、どんなことをkokoronakaでつぶやくだろうか。

1 「いつもミスばかり。watakushiって、経理keiri向いmuiてないんだわ」
2 「もう少しsukoshi注意chuuiして処理shoriすれば、間違いmachigai防げfusegeたはずだわ」
3「こんなに汚くkitanaku書かkakaれていたら、だれだって読みyomi間違うmachigauわ」
4「ついてないな。あの伝票denpyouさえ担当tantouしていなければ…」

このyonつを挙げageたのにはwakeがある。 会社kaisha心理shinrigakuでは、なぜそうなったのかを考えるkangaeruことを「原因gen’in帰属kizoku」 といい 、観察kansatsuしてeられたデータをもとに、その理論rironka試しtameshiみられてきた。社会shakai心理shinrigakuでは、なぜそうなったのもっとも、人間ningen行動koudouがすべて理論rironkaされて予測yosoku可能kanouになるわけではないが。その代表daihyoutekiなものとしてワイナーの原因gen’in帰属kizoku理論rironがある。migihyoumiてわかるように、「安定anteisei」と「原因gen’in所在shozai」のそれぞれニつの要因youin組合せkumiawaseによってyonつのパターンができる。安定anteiseiというのは少々shoushouわかりづらいが、その結果kekkaがいつものことだと考えるkangaeruなら、安定anteiしていると考えkangae、たまたま起こっoko~tsuたこと、あるいは場合baaiによって結果kekka異なるkotonaru考えるkangaeruなら、fu安定antei要因youinだということである。

New Approach Japanese Pre-Advanced – Red Book – Chapter 6

6 言い換える・まとめる 「実感                              

本文を読む前に

       ・ある統計によれば、日本で1年間に捨てられるゴミの量は約5,000万トンだそうです。この数字を見て、どれくらい多いか実感できますか。

本文

量や程度を表すためにいろいろな単位がある。どんなに大きなものでも数字と単位で示すことができる。ところが、日本で一年間で消費されるビールの量が710万キロリットルだと書いてあっても、どれくらい多いのかすぐに納得する人は少ないだろう。要するに、数として頭では理解できても、桁が多くなると、単なる数字の娩にしか見えなくなるということである。

そんな時には、平均して「一人当たり56リットル」  と書けば、少しは実感できるようになる。  しかし、全体を実感するには、だれにもなじみがあるものに置き換えて示すのがいい。例えば、「東京ドーム5.7杯分」と書けば、「ああ、そんなに多いのか」と納得がいくわけだ。

数を実感するということは、その数の意味を実感することでもある。例えば、大企業の場合には一年間に消費される紙の量は、それを積み重ねると富士山の3倍近くになると知れば、多さを実感するとともに、資源節約の必要性についても頭が刺激される。

さて、 学校で人類の直接の祖先の誕生はおよそ20万年前~10万年前だと学ぶ。  しかし、あまりに昔のことなのでぴんと来ない。    人間の寿命は100年にも満たないのだから、万の単位を実感しろというのは無理な話だ。時は目には見えないが、カレンダーによって私たちは一日、一か月、一年という単位を意識しながら生活している。そこで、実感するために地球の歴史、46億年を-年の長さに縮小した「地球カレンダー」を作ってみる。すると人類の歴史も違って見えてくる。実感するのは程度の大きさばかりではない。

1月1日が地球の誕生日だとすると、人類の祖先が誕生したのは12月31日、夜の11時半を回ったころである。人類の誕生ははるか昔の出来事だと思っていたが、その歴史も地球の歴史に比べればなんと短いことか。

こうして何か身近なものに置き換.えてみることで、数が実感できるようになると同時に、その数の意味、すなわちことの重大性やはかなさも感じ取ることができるわけだが、置き換えるものを身近な「共同体」にすると、先のニつの例とはまた違った実感の仕方ができる。例えば、日本の失業率が5%に運したことを、「100人のうち5人が仕事がない」と言えば少し実感がわくが、それでも、まだ数字の世界のことのような気がする。そ子で「今、この教室にいる20人のうち一人が仕事がない」としてみると、5%がもつ意味をより深く考えさせられるのではないか。

近年「世界がもし100人の村だったら」(→注)という見方がブームになったが、結局人々を引きつけた理由というのは、実感だったのではないだろうか。 

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New Approach Japanese Intermediate Course (Blue Book) – Chapter 4 – Reading

だい4 対比たいひ逆接ぎゃくせつ(1)アナウンスと親切しんせつ

あるひと鉄道てつどう会社かいしゃ行っいっ文句もんく言っいったそうです。「えきのホームと車内しゃない放送ほうそうはなんとかなりませんか。電車でんしゃ乗るのるたびに同じおなじことを聞かさきかされて、うるさいんです」と。しかし、駅員えきいんは「お気持ちきもち分かりわかります。確かたしかにうるさいと思うおもうほうもいらっしゃい ます。ですけれども、初めてはじめて乗るのるひとやまだ慣れなれていないひとのた めに必要ひつようなんです。どうぞご理解りかいください」と答えこたえたそうです。わたし自身じしん初めてはじめて行っいったところでは、乗り換えのりかえ案内あんないつぎはど このえきかアナウンスがあったほうが便利べんりだと思っおもっていました。 ですから、わたしはこの駅員えきいん説明せつめい聞いきいて、それは安全あんぜんのために 必要ひつようだし、それが公共こうきょう場所ばしょのサービスだと思いおもいました。とこ ろが、それはちょっとへんだと思うおもうひとがいるようです。
ヨーロッパに住んすんだことがある友人ゆうじんわたし違っちがって、あれは本当にほんとうに迷惑めいわくだと思っおもっています。例えばたとえば、パリの地下鉄ちかてつ複雑ふくざつだけれども、全然ぜんぜん放送ほうそう流れながれないそうです。それはずいぶんと不親切ふしんせつだなとわたし思うおもうのですが、かれ周りまわりひと困っこまっているひと助けたすけてあげれば「騒音そうおん」は要らいらないと言いいいます。
わたし毎日まいにち電車でんしゃ通勤つうきんしていますが、その「騒音そうおん」にすっかり慣れなれてしまってなに感じかんじなくなってしまったようです。でも、かれはなし聞いきいて、公共こうきょう場所ばしょについての考え方かんがえかたくにによって違うちがうのかもしれないと思いおもいました。

Japanese Learning – New Approach Pre-Advanced (Red Book) – Chapter 5 – 本文

だい事柄ことがら加えるくわえる(1)プレーパーク

本文ほんぶん読むよむまえ

子供こどもたちが遊ぶあそぶ公園こうえん設備せつびにはどんなものがありますか。
子供こども公園こうえんでけがをしないようにおやたちはどんなことに注意ちゅういしていますか。
・あなたは子供こどものころ、どんなところでよく遊んあそんでいましたか0

本文ほんぶん

じゅうはちさい田舎いなかからてきたわたしにとって、都会とかい活気かっき満ちみちた、カある
世界せかい映っうつった。昼夜ちゅうや問わとわず、そこには様々さまざま情報じょうほうもの集まりあつまり それを
人々ひとびと消費しょうひしていく。
やがてとき流れながれ結婚けっこんしてニ母親ははおやになり、いま平凡へいぼん生活せいかつ送っおくっ
いる。そしていま近くちかく公園こうえん息子むすこたちが遊ぶあそぶのを眺めながめながら 、ふとふところ
しく思い出すおもいだすことがある。 この公園こうえんにはラランコゃ滑り台すべりだいもちろん、
ちょっとしたフィールドアスレチックができる設備せつびもあり、それなりに楽しめるたのしめる
また、ちょっとあし伸ばせのばせば、裸足はだし水遊びみずあそびができる公園こうえんもあるこ
とはある。でも、なにかがない。どんな公園こうえんでも、子供こども自然しぜん接するせっする場所ばしょ
があることは有難いありがたいことである。ただ、きれいに整備せいびされた公園こうえんではなに
わくわくさせるものがない。わたし田舎いなか体験たいけんした冒険ぼうけんがないのである。
ある広報こうほうわたし住むすむまちに「プレーパーク」 というのができた
ことを知っしった。「冒険ぼうけん遊び場あそびば」と呼ばよばれ、地域ちいき人々ひとびとのボランティアによって
運営うんえいされているらしい。そんなに遠くとおくない場所ばしょなのでどんなところ行っいった。
こには見慣れみなれ公園こうえん風景ふうけいとは全くまったく違うちがうもの、わたし
幼いおさないころの思い出おもいで重なるかさなるものがあった。整備せいびされてい
ないのである。そこにはただ「遊びあそびのもと」 が転がっころがっ
いるだけだ。どこからか拾っひろってきた段ボールだんぼおる登っのぼっ
たりロープを結べるむすべるようなもある。整備せいびされていない
ばかりか、「それは危険きけんだから禁止きんしします」 といったル

 

 

だい5事柄ことがら加えるくわえる(1)プレーパーク

ールもない。なにだってできるのである。「にれを使っつかってこう遊びあそびなさい」と
言わいわれることもない。地面じめん好きすきなだけほりってもいいし、小さなちいさなかわ作りつくり
たければ作っつくってもいい。どろだらけになって遊ぶあそぶ子供こども
ちは生き生きいきいきしている。
自分じぶん責任せきにん自由じゆう遊ぶあそぶというのがここのモットーな
のだ。ただし、子供こどもたちが大きなおおきな怪我けがをせずに、好奇こうきしん
冒険ぼうけんしん満足まんぞくさせられるように、必ずかならず大人おとなのリーダー
がいて、 それを見守っみまもっている。リーダーといっても、
きょうたちを指導しどうし、育てるそだてるのではなく、育つそだつのを手助けてだすけ
存在そんざいである。
見学けんがく終えおえわたしは、とにかくなにかせずにはいられなか
った。そこで、冒険ぼうけん遊び場あそびばのことを色々いろいろ聞ききき運営うんえい
手伝いてつだい申し出もうしでた。プレーパーク作りづくり活動かつどう団体だんたい全国ぜんこく
広がっひろがっているという。こういう地域ちいきはどんどんぞう
えていってほしいものだ。

写真しゃしん提供ていきょう駒沢こまざわはらっぱプレーパークのかい東京とうきょう


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